column マヌ・ジノビリ スピーチ

Published on 6月 20th, 2019 | by Tunaパスタ

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マヌ・ジノビリの永久欠番スピーチ

2019年3月28日にサンアントニオのAT&Tセンターで執り行われたマヌ・ジノビリの永久欠番セレモニー。世界レベルでバスケットボールというスポーツに多大な影響を与えたレジェンドのキャリアを称えるに相応しい、始まりから終わりまですべてが完璧な1日だった。

この日は試合前に特別にアルゼンチン国歌が斉唱され、試合中は久々に“ビッグスリー”が並んでチームを応援。ハーフタイムにはアルゼンチン黄金世代による「マヌ談義」が催され、試合は現スパーズ選手でジノビリと最も付き合いの長いパティ・ミルズのクラッチスリーにより、スパーズが“マヌの日”勝利で飾った。

▼ダンカンはジノビリTシャツ

ビッグスリー 永久欠番

▼アルゼンチンのマクリ大統領からもメッセージ

そして試合終了から約30分、AT&Tセンターの照明が落ち、メインイベントである背番号「20」の永久欠番式典が開幕した。

セレモニーにはジノビリの家族の他、ティム・ダンカンとトニー・パーカー、球団トップのグレッグ・ポポビッチHCとR.C.・ビュフォード、元アルゼンチン代表のファブリシオ・オベルトがセンターステージに列席。それぞれが順番にジノビリへの想いを言葉にし、最後は主役のジノビリが英語とスペイン語を交えながら家族や球団、ファンたちに向けた感謝の気持ちを熱く語った。

幸運に恵まれたバスケ人生

https://twitter.com/spurs/status/1111475379976486913

「TD(ティム・ダンカン)にジャケットを着させて、みんなの前で話をさせることができた。これは大したことだよ。しかも5~6分も話してくれた。これ以上の達成感はないね」と軽いジョークでスピーチを始めたジノビリ。

約20分間に及んだスピーチは、家族や友人、恩師、チームメイト、そしてファンたちへの愛に溢れていた。

「この場所に立ってスピーチを始めようとした時にふと思ったんだ。僕は一体ここで何をやっているのか!?みんなの前に立って何をやっているのだろう?信じられないんだ。こんな場所に辿り着けるなんて、子供の頃は夢にも思わなかったよ」

「ヨーロッパでプロとして成功できるかもしれない。もしかするとアルゼンチン代表として何か功績を残せるかもしれない。最初にバスケが上手くなり始めた頃は、そんな夢を描いていた。でも気がつけばいつの間にか僕はここにいて、尊敬するレジェンドたちから贈られる言葉に耳を傾けている。本当に胸がいっぱいで、上手く言葉にできない。この球場にいる全員と握手してハグしたい気分だ。それほど感謝している」

「アルゼンチンからここに辿り着くまではすごく長い道のりだった。でも僕はとにかく幸運に恵まれていたんだ。僕を育ててくれた両親はとても協力的で、息子たちが夢や情熱を追いかけるのを応援してくれた。そのために必要なことなら何でもしてくれた。僕の生まれた街では、バスケットボールは特別な意味を持ったスポーツだった。そこで僕のバスケットボールに対するハングリー精神や病的なまでの情熱が培われた。だから僕は運がいいんだ。生まれる場所や両親は自分で選べないからね」

「それから最も幸運だったのは、僕が20歳の時。アルゼンチンのプロリーグでプレイしていた頃だ。そこで僕は運命の人に出会ってしまったんだ。面白くて賢く、優しくてカリスマ的で、若くて美しい女性。驚くことに、彼女も僕のことを好きになってくれたんだ。そして彼女は僕と同じ旅路を歩く選択をしてくれた。それが僕の人生における最大の幸運だよ」

▼妻に想いを伝えるジノビリ

ドラフトの話

ジノビリがドラフトされたのは1999年の全体57位指名。その3年後の2002年に正式にスパーズと契約して念願のNBAデビューを果たす。

永久欠番スピーチでは、ジノビリの運命を変えたドラフト当日とその時の心境についても触れていた。

「(1999年ドラフトの日)僕はアルゼンチン代表チームと一緒にいて、トーナメントへの準備を進めていた。ドラフトについては無関心だったよ。すると突然電話がかかってきて、NBA王者から指名を受けたことを知らされたんだ。『いやいや、あり得ないよ』と思ったね。でもそれは事実だった。確認すると全体57位指名だった。3位とかではなかったよ」

「でもその瞬間から僕の目標は変わった」

「ドラフト指名を受けたことで、自分がチームから注目される存在なのだとわかった。あとは自分次第なんだと思えるようになった。十分な実力を付ければ、いつかチームから声がかかるかもしれない。実際にその3年後、僕は選手として成長し、ここに来ることができた。これも幸運だ」

「本当に僕は運に恵まれた人間なんだ。僕の手には素晴らしいカードが配られた。僕がやってきたことといえば、ただそれを間違えないようにプレイしただけだ」

▼1999年NBAドラフト57位指名

1999年当時のジノビリはNBA界隈から見てほぼ無名の選手。57位指名の際に名前を読み上げたデビッド・スターン元コミッショナーの発音もかなり怪しいものだった(エマニュエル・ジノビ↑ーリ↑)。

当時のドラフト実況解説者は57位指名のジノビリについて、「オフボールでの動き方やスクリーンの使い方を心得ており、ディフェンスもしっかりしている。57位としては素晴らしい指名だと思う」とコメント。解説者の評価は間違っていなかった。間違っていないどころか、ジノビリはその何十倍も偉大な選手となり、インターナショナル勢の先駆者の一人としてNBA史に名を刻んだ。

感謝の気持ち

・スパーズファンへ:

「ご存知の通り、バスケットボールはチームスポーツだ。この世界では、個人の力だけでは何も達成できない。だからこそ感謝の気持ちを大切にしたい」

「今日は多くの人に感謝を伝える最高の機会だと思う。感傷的になってしまうかもしれない。僕にとってエモーショナルな日だからね。でもみんなに分かって欲しいのは、僕に憂鬱な気持ちは微塵もないということ。引退の決断には満足しているし、家族と過ごせる時間がずっと増えた。だから僕は悲しんでいない。むしろ今の自分にハッピーなんだ」

「最初に感謝を伝えたいのはファンのみんな。僕が初めてサンアントニオに来た時は、この街について何も知らなかった。正直なところ、疑念や不安の気持ちでいっぱいだった。ポップ(ポポビッチHC)の下でティムやデイビッド・ロビンソンと共にプレイするのがどんなことなのか想像もできなかった。でも僕がフロアに立てば、君たちはいつも声援を送ってくれた。僕の名前をチャントしてくれた。僕を支え、受け入れてくれた。この恩は一生忘れないよ」

・スパーズのスタッフへ:

「次にスパーズのみんなへ。今このフロアにいる人たちだけでなく、球団関係者全員へ。表舞台には出ないが、スパーズファミリーに貢献してくれている人はたくさんいる。彼らは我々選手を大切にし、居心地の良い環境を作るために一生懸命頑張ってくれる。それはとても重要なことだ」

「トレーナーにストレングスコーチ、アナリスト、ドクター、それから僕の家族をまるで自分の家族のように大切にしてくれたアリーナのスタッフ。この場所であなたたちと交流できて本当に楽しかった。ありがとう」

「それから7歳の頃から引退するまで、僕のバスケットボール人生でお世話になったすべてのチームメイトとコーチへ。キャリアを通して僕には250人以上のチームメイトがいた。もちろん、ちゃんと数えましたよ。僕の周りには常に一流の人たちがいたんだ。これが、自分は恵まれた人間だと思うもう一つの理由だ。彼らから多くを学び、たくさんの経験を共有してきた。良きチームメイト、良きコーチでいてくれてありがとう」

最も大切な2つのグループ

「バスケットボール人生を通してチームメイトやコーチに恵まれた」と繰り返し語るジノビリ。「多すぎて全員の名前を挙げることはできない」としながらも、その中で特に心に残ったという2つのグループをあげた。

一つはアルゼンチン代表チームの戦友たち:

「君たちと一緒にプレイできて最高に楽しかった!この上ない喜びだよ。世界中のどこでプレイしても、僕たちは常に握り拳のように固い結束を持った仲間だった。どこにいてもお互いを支え合いながら、勝利した後は喜びを分かち合った。そして試合に負けた後は、勝った時以上に有意義な時間を過ごせたよ。敗北する度に僕たちの友情とチームの力は強くなっていった。何ものにも代え難いたくさんの友情と大切な経験をありがとう!」

そしてもう一つはもちろんスパーズメンバーだ:

「ティム(ダンカン)にトニー(パーカー)。君たちとは1000試合以上を一緒にプレイしたかな?最高だったよ。ティムにはアイコンタクトするだけで僕の考えを100%伝えることができた。トニーとは眉毛を軽く上げるだけでバックドアカットのタイミングを理解し合えた。本当に特別な繋がりだった。僕はその繋がりに死ぬまで感謝し、誇りに思い続けるだろう」

「それからパティ(ミルズ)にボボ(ディアウ)、ティアゴ(スプリッター)。君たちのおかげで、この年寄りはいつまでも若くいられたよ。遠征で家族と離れて寂しかった時も、お前たちがいたから楽しく過ごせた。ありがとう」

「もちろん他にも感謝したい人はたくさんいる。ブルース(ボウエン)やショーン(エリオット)、マリック(ローズ)、デイビッド(ロビンソン)、ブレント(バリー)、ファブリシオ(オベルト)……。全員の名前を挙げるのは無理だ。僕がここで過ごした16年間は、本当にたくさんの一流選手たちに恵まれていた。深夜のディナーや何気ない会話。楽しむことを常に忘れず、ベテランたちから多くを学んだ。どんなときも一緒に戦い、一緒に勝利をあげた。本当に素晴らしい時間だった」

「そしてポポ(ポポビッチHC)。あなたは感性豊かで優しく、寛大でスマートな……狂人だ。あなたはクレイジーな人間だけど、僕にとって本当に特別な恩人。あなたが僕や家族のためにしてくれたことに心から感謝しています。あなたからはバスケットボールはもちろん、それ以上に大切なことも沢山学んだ。一生忘れません」

最愛の家族へ

ジノビリはここでスピーチを英語からスペイン語に切り替える。そして時折声を震わせながら、両親と3人の息子、妻のメニーに感謝と愛を伝えた。

・両親へ

「父さんと母さん、どこにいるのかな?この会場のどこかにいるはずだけど……。いや、今は顔が見えない方が話しやすいね。ありがとう。僕たちが必要としたものをすべて与えてくれてありがとう。僕たち兄弟がそれぞれの夢を追いかけ、自分らしい道を選ぶ自由を与えてくれてありがとう」

「母さん、最初あなたは僕の夢に反対していたね。医者や弁護士、会計士を目指すべきだと思っていたんだよね。それは知っている。それでもあなたは常に僕たちに選択の自由をくれた。父さん、あなたは大のバスケットボールファンでありながら、僕のチームメイトやコーチ、球団に関しては一切口出ししなかった。でも僕はどんな場所にいても、常にあなたが隣に立って支えてくれている気がしていた。だからありがとう。それはどんなアドバイスよりも価値あるものだったんだ」

・3人の息子へ

「そこの3人!そうお前たちのことだ。もしかするとお前たちは今ここで何が起こっているのか理解できていないかもしれない。ダンテ(三男)にいたっては半分夢の中にいる。今は理解できないかもしれないが、ただこれだけは分かってくれ。パパは悲しんでないよ。むしろ最高にハッピーなんだ」

「今日のセレモニーはとても特別なこと。例えパパが泣いたとしても、それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙だ。それからパパとママが言うことは、すべてお前たちの幸せを願ってのことだ。毎日言い聞かせてきたし、これからもお前たちが28~29歳になるまで言い続けてやる。世界中の誰よりもお前たちを愛しているよ」

・妻メニーへ

「君にちゃんと感謝の気持ちを伝えるには、スピーチの時間が3時間あっても足りない。だからいくつか選ばせてくれ。まず、20年以上も僕の我がままに付き合ってくれてありがとう。例えば『昼寝は決まった時間に』とか、『今は静かにしていてくれ』とか。『食事は○○じゃなきゃ駄目』とか『今日は疲れてるから相手できない。明日も試合があるから無理』とか。君はこういった我がままをすべて受け入れてくれた。それだけでなく、僕がバスケットボールだけに集中できるよう進んで後押ししてくれた。本当にありがとう」

「夏のオフシーズンには、僕は毎年のようにアルゼンチン代表としてロンドンや日本、中国など世界中を飛び回っていた。本来なら休暇を取って家族と過ごすべき時間だったかもしれない。それでも君はずっと僕を支えてくれた。そして好きなことに打ち込む僕のことを誇りに思ってくれた。ありがとう」

「僕は君の時間をたくさん奪ってしまった。君が与えてくれた友情と無条件の愛情に心から感謝している。今の僕があるのは君がいてくれたからであり、君が自分を犠牲にして僕や子供たちのことを優先してくれたおかげだ。君には一生かかっても返しきれない恩がある。でもこれから40~50年かけて少しずつ埋め合わせさせて欲しい。そのためにベストを尽くそうと思っている」

※   ※   ※

「『これほど素晴らしい旅路を歩めるなんて夢にも思わなかった』、引退を表明した時に僕はツイッターにそう綴った。この言葉に偽りはない。ずっと支えてくれて本当にありがとう。I Love You」

その言葉でジノビリはスピーチを締め括る。それから間もなくAT&Tセンターの天井、ティム・ダンカンの「21」番の隣に背番号「20」のユニフォームが掲げられ、ジノビリはその様子を誇らしげに見上げた。

何もかもが最高に素敵なセレモニーだった。英語とスペイン語を交えたバイリンガル・スピーチも、インターナショナル性をずっと大切にしてきたスパーズカルチャーを象徴するものだったと思う。

式典の日からだいぶ時間が経ってしまい、さらに筆者の語彙力不足で稚拙な訳文になってしまったが、ジノビリがスピーチに詰め込んだ想いの十分の一でも伝われば嬉しく思う。

Manu Forever

セレモニー:「NBA

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いつもたくさんのコメントをありがとうございます。最近、返信が遅くなっており、申し訳ありません…



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