ビル・ラッセルが死去、NBAを11回制覇したセルティックスのレジェンド
現地2022年7月31日、“バスケットボール史上最高のディフェンダー”と称される元ボストン・セルティックスのビル・ラッセルが、ワシントン州マーサーアイランドの自宅で亡くなった。享年88歳だった。
ラッセルの家族が公式Twitterアカウントから訃報を発表。死因については言及されていないが、声明によれば、妻に看取られながら安らかに眠りについたという。
究極の勝者
1956年のドラフト全体2位指名でNBA入りしたラッセルは、キャリア13シーズンで15.1得点/22.5リバウンドを平均。得点力はそれほど高くなかったが、ディフェンダーとしてはリーグ史上でも比類ない存在であり、デビュー2年目の23歳から11年目の32歳にかけて、10年連続で平均20リバウンド以上を記録した。
またラッセルがNBA史上最高のディフェンダーと称される大きな理由は、そのリム守備力の高さ。ラッセルが現役だった1950~60年代当時は「ショットブロック」がカウントされていなかったため、公式記録には残っていないが、1966年2月7日のウォリアーズ戦で25ブロックをマークしたという逸話もある(1試合におけるブロック数のNBA公式最多記録は、1973年にレイカーズのエルモア・スミスがマークした17本)。
以下、ラッセルがNBAで残した功績:
- 優勝:11回(歴代最多)
- MVP:5回(歴代2位)
- リバウンド王:5回
- オールスター選出:12回
ラッセルは現役13シーズン中11シーズンでリーグ制覇を達成。11回の優勝は、NBA/NFL/NHL/MLBのアメリカ4大プロスポーツにおいて、アイスホッケーのアンリ・リシャールと並ぶ最多記録だ。
さらにラッセルは1955年と56年にNCAAのカレッジバスケを2連覇し、1956年のメルボルン五輪ではアメリカ代表として金メダルを獲得。NBAコミッショナーのアダム・シルバーはラッセルを「究極の勝者」と評した。
オフコートでもレジェンド
ビル・ラッセルは、バスケットボールコートの外でもアメリカの社会に多大な影響を与えた人物。特に1960年代には公民権運動の指導者の1人として活躍した。
ラッセルがNBA現役選手だった20世紀中盤のアメリカは、まだ黒人に対する人種差別が色濃く残っていた時代。当時のラッセルは、すでに国を代表するアスリートだったにもかかわらず、様々な差別を経験/目撃したという。
1961年にセルティックスのチームメイト(サム・ジョーンズ)がケンタッキー州レキシントンのレストランで人種を理由にサービスを拒否された際には、プレイヤーによるボイコットを主導。
またボクサーのモハメド・アリがベトナム戦争への徴兵を拒否して物議をかもした際には、マーティン・ルーサー・キングやカリーム・アブドゥル・ジャバーらと共にアリの立場を支持した。
▼1967年の『クリーブランド・サミット』にて。前列左からビル・ラッセル、モハメド・アリ、ジム・ブラウン、カリーム・アブドゥル・ジャバー
キャリアを通してオンコートだけでなく、オフコートでも戦い続けたラッセル。1966年にはレッド・アワーバックの後任としてセルティックスの選手兼ヘッドコーチに就任し、米プロスポーツ史上初のアフリカ系アメリカ人HCとなった。
ビル・ラッセルは、後の黒人アスリートたちが躍動するための道を切り開いたレジェンド中のレジェンドだ。
参考記事:「ESPN」