ポポビッチHC、ジノビリとの関係について「チームの魂、私のおしゃぶり」
以下、サンアントニオ・スパーズのグレッグ・ポポビッチHCが10月30日のボストン遠征の際に行ったインタビューより。この日のポポビッチHCは、セルティックスとの試合前に17分にわたる取材に応じ、長年苦楽を共にしてきたマヌ・ジノビリとの関係について話した。
ドラフト57位指名のジノビリがスパーズの一員となってから今年で16年目。今やポポビッチHCにとって、オン/オフコートの両方でかけがえのない存在となっているようだ。
「マヌは、パティ・ミルズやトニー(パーカー)、ティミー(ダンカン)と共に、チームの細胞でありバックグラウンドであり魂のような存在だった。それが今はラマーカスとカワイにシフトしつつある。その間に彼は、私にとって“おしゃぶり”のような存在になった。幼児はいつもおしゃぶりを探しているだろう。それと同じ。チーム練習で彼の姿を見ると、心が落ち着くんだ」
ポポビッチHCとジノビリの関係は最初から良好だったわけじゃない。むしろデビューした頃のジノビリは、ポポビッチHCにとって頭痛の種だったという。
2000年代前半のスパーズといえば、スローペースでディフェンス第一。とにかく堅実なバスケットボールが持ち味で、オフェンスにおける絶対的なルールは、ティム・ダンカンのポストゲームを中心に展開すること。当時のポポビッチHCは、例えノーマークだったとしても、ショットクロックの前半でスリーを打つことを好まなかった。
一方のジノビリは、スリーを躊躇なく放つだけでなく、トランジションでのロングパスやディフェンダーの股の間を狙うパスなど、昔からリスクの高いプレイを連発し、ディフェンスでもスティールを狙って頻繁にギャンブルする。その自由気ままなプレイスタイルは、スパーズが理想としていたシステムには合わなかったのだ。当時チームのアシスタントコーチを務めていたマイク・ブーデンホルザーによると(現アトランタ・ホークスHC)、ポッポビッチHCは「あの男をコーチできる気がしない」と愚痴をこぼしたことさえあるらしい。
ルーキーのジノビリも、他の選手たちと同じように、「オフェンスではコーナーでダンカンのパスを待て」と指導されたそうだが、若きジノビリは反抗した。そして自分らしさを貫きながら結果を残し、ポポビッチHCの信頼を勝ち取った。
「デビューした頃のマヌは、私が不必要だと考えるプレイをやっていた。だがある日、彼は私のところにやってきてこう言ったんだ、『アイ・アム・マヌ。これが僕のやり方だ』。私はこう返答してやった、『わかったよ。ならば1試合につきリスキーなパスを1~2本ほど減らしてくれ。そうすれば、私もお前がやらかした時に小言を一つ二つ我慢するよ』とね。我々はそのようにして折り合いをつけた。それからというもの、私と彼はラブラブだよ」
▼ヤング・マヌ
ESPNのZach Lowe記者が昨年の夏に掲載した特集記事によると、当時のスパーズでは、ポポビッチHCとジノビリの間で、こんな面白いやり取りがあったそうだ:
ある試合前のフィルムセッションでのこと。ポポビッチHCは、ジノビリが速攻でハイリスクなパスを放ってターンオーバーを出している映像をチームに見せ、「2度とこれをやるな」と釘を刺したらしい。
するとその次の試合、似たような状況でボールを手にしたジノビリは、そのまま振りかぶってリスキーなパスを出すと見せかけて直前で止め、サイドラインのポポビッチに「ニヤリ」と笑いかけた。それをベンチから見ていたスティーブ・カーやケビン・ウィリス、ダニー・フェリーら大ベテラン勢は、歓喜の声をあげたという。
「『コーナーで待て』と言われた最初の年はすごくフラストレーションが溜まった。ボールを持って、プレイを指揮したかった。僕は25歳で、世界を席巻したいと思っていたんだ」
– マヌ・ジノビリ
コーチに何度も怒鳴られながらも、ジノビリは“スパーズらしくない”ショットを打ち続け、守備陣形を飛び出してスティールを狙い続けた。そして最終的にポポビッチHCは、「好き放題やらせたほうがチームにとってプラスになる」という考えに至ったそうだ。
「マイナスよりもプラスの方が多いことに気付いたよ。彼は紛れもなく勝者だ。私のやり方を押し付けるよりも、彼のやり方でやらせるべきだという結論に辿り着いた」
– グレッグ・ポポビッチ