ケビン・ラブ 「誰もが何かを抱えている」
これはクリーブランド・キャバリアーズのケビン・ラブが2018年3月に『Players Tribune』に寄稿したエッセイ。自身が経験したメンタルヘルスの問題について包み隠さず明かしている。
「心の問題や弱さ」を自覚し、それを他人とシェアするのはとても勇気のいる行動だ。ラブがこのエッセイを公開してからすでに2年近くになるが、すごく心に突き刺さる内容だったので紹介したい。
「誰もが何かを抱えている」
あれは2017年11月5日に行われたキャブス対ホークス戦。後半開始直後でのこと。
僕はパニック障害を発症した。
それは何の前触れもなくやってきた。人生で一度も経験のなかったことだった。「パニック障害」が自分の身に起こり得るものだなんて、当時の僕は夢にも思っていなかった。
でもそれはどこまでもリアル。骨折や捻挫と同じくらい現実的なものだった。その日を境に、僕の「メンタルヘルス」に対する考え方は180度変わった。
僕は昔から自分自身のことを他人と共有するのが苦手な性格だった。
僕は今年の9月で29歳。内面的な部分に関しては、ずっと周囲に壁を作ってきた。バスケットボールについてなら誰とでも気軽に話せる。でもプライベートな話題をシェアするのはどうも駄目だった。
今にして思えば、もし昔から僕の周りに包み隠さず打ち明けられる誰かがいたなら、どれだけ救われていただろう?でも僕は“共有できる誰か”を探そうとはしなかった。公の場ではもちろん、家族や親友といった親しい人たちにさえも話せなかった。そして僕は今、自分を変えなくてはならないことをようやく悟った。
だからこの場を借りて、自分が体験したパニック障害とその後の経緯について話したいと思う。
※ ※ ※
「誰にもわかってもらえない」、そんな風に1人で苦しんでいる人が沢山いるだろう。少し前の僕がそうだった。僕が自分の経験をシェアしようと決意したのは、自分自身のためでもある。でもそれ以上に、「メンタルヘルス」についてもっと気軽に話し合える環境を作る必要があると思ったんだ。特に男性は“ココロの内”を他人に明かそうとしない。
僕たちは幼い頃から「男子はどのように振舞うべきか」を嫌でも叩き込まれる。“男らしく”なるにはどうすればいいのか?
バスケットボールのプレイブックみたいなものさ: 「弱音を吐くな。感情を表に出すな。自分の力で乗り切れ」といった具合だ。だから僕は29年間、ずっとそのプレイブックに従ってきた。
「男らしさ」や「タフネス」といった価値観はとても“普通”で、いたるところで見られる。同時にそれは空気や水と同じで、目には見えないものでもある。そういった意味では、鬱病や不安障害と同じ類のものなのかもしれない。
メンタルヘルスの問題なんて所詮は他人事…、生まれてから29年間ずっとそう勘違いしていた。誰かに助けを求めたり、悩みを告白したりすることで、救われる人たちがいるということは何となく理解していた。でも僕には無関係だと思っていた。それは弱さの表れであり、スポーツの世界では成功を妨げる一因となる。もしくは周囲から変わり者だと見られる。そんな風に考えていた。
パニック発作は突然僕を襲った。
しかも試合中に。
2017年11月5日、29歳の誕生日から2カ月と3日。あれはシーズン開幕10試合目、ホークスとのホームゲームだった。厄災が重なったんだ。まるでパーフェクト・ストームのように。
当時の僕は家庭内の問題で悩みを抱えていて、十分な睡眠をとれていなかった。そしてオンコートでは、周囲からの大きな期待と、それに反するような4勝5敗という成績不振。それらが重荷になっていた。
試合が始まった直後に何かがおかしいと感じた。
たった数分で息切れを起こしてしまう。何かが変だ。とにかく調子が悪い。前半に15分間プレイしたが、フィールドゴールを1本とフリースローを2本しか決められなかった。
後半に入ってからは、一気に状態が悪化した。第3Q序盤のタイムアウトでベンチに戻った時のことだ。心臓の鼓動が普段よりも早くなっていることに気が付いた。呼吸を整えることさえままならない。上手く言葉にできないけど、まるで頭蓋骨から脳味噌が飛び出してしまいそうな感覚。とにかく目が回る。吸い込む空気は重く濃厚で、口の中はチョークを含んだみたいにパサパサだった。
アシスタントコーチが守備陣形についてチームを怒鳴りつけている。僕は相槌を打っていたけど、彼の言葉はほとんど頭に入ってこない。もうパニック状態だ。円陣を抜け出した時点で、試合に戻るのは無理だと判断した。身体的に不可能だったんだ。
コーチ・ルーが僕に話しかける。様子がおかしいと察してくれたらしい。僕は「すぐに戻るから」といったニュアンスの言葉を残し、ロッカーロームへと逃げた。まるで忘れ物を探しているかのように、僕はいろいろな部屋を行き来していた。早く動悸が治まってくれることだけを願いながら。「お前はもうすぐ死ぬ」、自分の体がそう告げている気分だった。最終的にはトレーニングルームの床に仰向けになり、呼吸するのに必死だった。
そこから先は少し記憶がぼんやりしている。キャブスのスタッフがクリーブランド・クリニックに付き添ってくれて、僕はそこで様々な検査を受けた。特に体に異常は見つからなかったので胸を撫で下ろしたよ。
でも病院からの帰り道でふと不安が頭をよぎった。体は至って健康…、ならばあの症状は一体何だったのか?
その2日後に行われたバックス戦で、僕は復帰した。32得点を記録し、キャブスの勝利に貢献した。調子を取り戻せたことにすごくホッとしたよ。でもそれ以上に、前の試合で途中退場した本当の理由を誰にも知られていなかったことに心から安堵した。その時の心境は鮮明に覚えている。球団の何名かは知っていたが、あの件について記事にされることはなかったからね。
それから数日が過ぎた。コート上では絶好調だった。でも何かが心に重くのしかかっている。
どうして僕はあの件について他人に知られたくないのか?なぜこんなにも心配になるのだろう?
その瞬間に目が覚めた。発作が治まった時点で、最大の難所は乗り越えたと思っていた。だが実際はその逆。なぜ発症してしまったのか?どうして人に言えないのか?そういった不安が僕の心の中に残った。
臆病、恐怖心、情緒不安定…、当時の僕が抱えていた感情はいろいろな言葉で表現できるだろう。でも僕が心配していたのは心の内の苦悩だけでなく、むしろその苦しみをカミングアウトできないところだった。自分の弱さをさらけ出すことで、チームメイトとして頼りない人間だと思われるのが嫌だった。そういった考えに至るのは、やはり幼い頃から心に深く植え付けられた“プレイブック”が原因なのだろう。
心の病は僕にとって未知の領域であり、すごく困惑した。ただ確信していたことが一つだけある。この問題をうやむやにしたまま先に進むべきできない。目を背けたい気持ちはもちろんあった。だがパニック障害とその根源にあるものを、まるでなかったことのように否定するのは、自分自身で許せなかった。この問題を先延ばしにはしたくなかった。放っておけばさらに悪化する可能性がある。そのくらいは理解できた。
だから僕は行動した。それは小さな一歩のように思えたが、結果としてとても大きな一歩だった。
キャブスがセラピストを紹介してくれたので、僕はすぐにアポイントメントを取った。話を進める前に、ここで一つ明確にしておきたい。自分がセラピストを必要とする日が来るなんて、昔は夢にも思っていなかったんだ。
確か僕がプロになってから2~3年目の頃だったと思う。ある友人からこんな質問をされた。
『どうしてNBA選手は心理セラピストのカウンセリングを受けないのか?』
僕はその友人の問いを笑い飛ばした。NBA選手が誰かに悩みを相談?あり得ないよ。当時の僕は20~21歳で、バスケ一筋で育ってきた。バスケットボールチームでは、誰も内面的な悩みなんか打ち明けたりしない。「僕は至って健康。問題など何もないよ」、その頃はそう思っていた。
何しろバスケで飯を食っているんだ。悩み事なんてあるはずがない。メンタルヘルスについて告白しているプロアスリートなんて聞いたことがなかったし、その先駆者にはなりたくなかった。弱い人間だと思われたくなかったんだ。正直なところ、セラピストなんて僕には無縁なものだと考えていた。“プレイブック”に書いてある通りさ。『人に頼らず、自分の力で解決せよ』、周りの皆がそうしてきたように…。
でもよく考えてみれば、少しおかしな話だね。NBAにいると、優秀な専門家たちがあらゆる分野で生活をチューニングしてくれる。例えばコーチやトレーナー、栄養士たち。彼らにはずっとお世話になってきた。でも僕がフロアに倒れ込んで呼吸困難に陥った時、必要としていたサポートを与えてくれる人は一人もいなかったんだ。
※ ※ ※
僕はどこか半信半疑のまま、人生初のカウンセリングに訪れた。納得がいかなければすぐに帰るつもりだった。でもそこでの体験は、まさに目からうろこだったよ。
まずカウンセリングの主題が、バスケットボールではなかったこと。担当してくれたセラピストの先生は、僕が診断に訪れた主な理由がNBAに関してではないことを最初から見抜いていたんだ。その代わりに僕たちは、バスケットボール以外の様々な事柄について語り合った。そして僕の抱えていた問題の多くが、注意深く覗き込まない限り見つけられないような場所に根を張っていることを知った。
「自分のことは自分が一番知っている」、人はそう思い込みがちだ。でも心の表面を覆う殻をはがし始めれば、自分自身について知らなかったことがたくさんあるのだと改めて思い知らされる。
それからというもの、クリーブランドにいる時はできる限りカウンセリングを受けるようにした。恐らく月に2~3回ほど。そして12月のある日、一つの大発見があった。それは祖母であるキャロルおばあちゃんについて話した時だった。
祖母のキャロルはラブ家の柱だった。子供の頃は一緒に暮らしていて、僕ら兄弟にとってはもう1人の親のような存在。彼女の部屋には孫全員分の『祭壇』があり、そこには写真やトロフィー、手紙が飾られていた。そして彼女はシンプルさを重んじる愛すべき人間だった。
キャロルおばあちゃんにNikeのスニーカーをプレゼントした時はすごく喜んでくれて、それからしばらくは何度もお礼の電話をしてくれたよ。
僕がNBAに入る頃には彼女も高齢になり、昔よりも会う機会が少なくなっていた。ウルブズに入団して6年目の時、キャロルおばあちゃんは「感謝祭」の祝日を利用してミネソタまで僕に会いに来る計画を立ててくれたんだ。
でもその直後、彼女は血管の病気で入院することとなり、旅行の計画は残念ながら中止。それからすぐに彼女の容態が悪化して昏睡状態に陥り、その数日後に帰らぬ人となってしまった。
僕は悲しみに暮れた。ただその気持ちを周囲に明かしたことはほとんどなかったと思う。でもカウンセリングを通して祖母への気持ちを他人に話したことで、彼女の死が今でも僕に重くのしかかっていることを理解できた。
心の中を深く掘り下げたことで、改めて気付かされた。僕を最も苦しめていたのは、彼女にちゃんとしたお別れを言えなかったことだった。彼女の死を悼む余裕を作れず、彼女がいなくなってしまう前にもっと連絡を取っていれば良かったと後悔した。でも僕はその気持ちにずっと蓋をしてきた。そして自分自身に言い聞かせてきた。「バスケットボールに集中しろ。悲しむのは後だ。お前は男だろ」とね。
ここで僕が祖母について語っている理由は、彼女のことを皆に知ってもらいたいからじゃない。もちろん今でも彼女が恋しいし、胸が痛い。ただ僕がこの祖母の話をしたのは、「誰かに話す」という行為がどれだけ啓発的な経験になったかを伝えたかったからなんだ。
カウンセリングに通った短い期間で、僕は自分の気持ちを外に出すことの大切さを実感した。それは容易なことじゃない。少なくとも僕の経験から言わせてもらえば、自分の内面を他人に話すのは、とても恐ろしく難しいことだと思う。誰かに話したからと言って、その問題が自然に解決するわけでもない。
でも僕はカウンセリングを通して学んだ。他人と心の中を共有することで、自分が抱えている問題をより深く理解できるようになる。そうすることで、その問題ともっと上手く向き合えるようになるかもしれない。「すべての人がカウンセリングを受けるべき」、僕はそんなことを主張したいわけじゃない。自分が助けを必要としている、という事実に直面できたこと。それが最大の教訓だった。
僕がこのエッセイを寄稿した理由の一つは、鬱病に関するデマー・デローザンのコメントを読んだことがきっかけだった。デマーとは長年にわたり切磋琢磨してきたけど、彼がメンタルヘルスの問題で苦しんでいるなんて夢にも思わなかった。
そこで実感させられた。人は誰しも、あらゆる種類の経験や苦悩を抱えながら生活している。それなのに「悩んでいるのは自分一人だけ」と思い込んでしまう。
でも実際は、友人や同僚、ご近所さんたちも恐らく似たような問題に苦しんでいる。僕は「心の深層にある秘密を共有しろ」と言いたいわけじゃない。むしろ自分だけに留めておくべきことはたくさんあるし、心の中をシェアすべきかどうかを決めるのはその人次第だ。
ただ、誰もがメンタルヘルスについてもっと気軽に話せるような環境を作ること。それが僕たちが向かうべき方向だと思う。
デマーの告白は、彼が行動を起こしたという事実だけで、多くの人の救いになったはずだ。同じような境遇にいる人たち、僕らが思っているよりもずっと多くの人たちが、「うつ病は決して異常でもなければ、恥ずべきことでもない」と思えるようになっただろう。デマーの言葉は、心の病に関する一般的な偏見に対して大きなダメージを与えたはずだ。僕はそこにこそ希望があると思う。
ここで一つ明確にしておきたい。僕はこの問題についてまだ答えに辿り着いていない。自分自身を知るという困難な道のりを歩み始めたばかりだ。
僕は29年間ずっとそこから逃げ続けてきた。でも今は自分に正直であろうとしている。周囲の人たちに対して誠実であろうとしている。人生を謳歌しながらも、触れたくない部分にもちゃんと向き合おうと努力している。良い部分と悪い部分、そして醜い部分、そのすべてを受け入れようとしている。
最近いつも自分に言い聞かせている言葉がある。その言葉でこのエッセイを締めくくりたい:
「人は誰もが目には見えない何かを抱えている」
もう一度言わせてほしい:
「誰もが目には見えない何かを抱えながら生きている」
目には見えない。だから誰がいつ、どんな風に苦しんでいるのか分からない。その理由さえも分からない。心の病は目に見えない。でも誰もが一度は経験する。それが人生だ。デマーが言っていたように、他人の苦しみは絶対に分からない。
もちろん心の病は、アスリートに限ったことじゃない。生業がその人の「人間性」を定義するわけではない。心の病はすべての人に共通する問題だ。どんな境遇にいようとも、人は必ず悩みを抱えている。そして、それを心の奥底に閉じ込め続けると、いずれ自分自身を傷つけてしまうだろう。
内面について完全に口を閉ざしてしまえば、自分自身を知る機会が少なくなる。同時に、似たような問題で助けを必要としている他の誰かに手を差し伸べる機会を失ってしまう。
僕と同じような心の病に苦しんでいる読者たちに伝えたい。抱えている問題の大小は関係ない。自分の苦悩を他人にわかってもらおうとする行為は、決して異常でもなければ、間違ってもいない。
むしろその逆。心の悩みを打ち明けるのは、最も意味ある行動になり得る。少なくとも僕にとってはそうだった。
Thumbnail by Erik Drost/Flickr
参考記事:「Players Tribune」